サルでも描けるまんが教室という本がある。この中で、とんち番長という漫画が作中作としてでてくる。以下、15年位前のスピリッツ連載時の立ち読みの記憶から引用する。

ある日とんち番長は出会った老人にとんち問題を出される。
「しわくちゃな老人が32才だという。なぜか?」
とんち番長はいとも簡単に答える。
「4×8(しわ)=32だからだ」
それを聞いた老人は不敵に笑い、
「その計算と老人の年齢に何の関係があるというのだ、そんなものはとんちではない」

さて、老人の年齢の秘密については原作を読んでもらうとして、この老人の論法は武器になる。私の嫌いな言説に漢字分解による人生訓があるが、それを蹴散らすことが可能だ。

  1. 人という字は支えあってできています。⇒人という字が支えあっているように見えることと、人が支えあうことに何の関係があるのだ。漢字文化圏以外の人はどうなんだ。
  2. 忙しいは心を亡くすと書きます。⇒だからなんだ。暇な人はなくさないのか。
  3. 親という字は木に立って見ると書きます。出かける子供を気にかけて、木の上に立って見る。それほど親というものは子の心配をするのです。
  4. 信者と書いて儲けと読む。

漢字が表意文字であることから、一見正しそうな論説であるが、漢字の成り立ちを論拠としていない以上、単なる偶然にすぎない。
問題はこの手の、偶然を立脚点とした人生訓めいたことを広めるのが、美徳であると多くの人に認識されていることだ。金八先生において用いられた上記1の話は、名エピソードとされている。本来ならこんな話を語る時点で、教師としては失格だ。

関係性の確かめられていない内容、または関係性を確かめる方法を誤った内容を、関係があることとして人に伝えることは、報道機関がやれば「あるある」になり、教師がやれば「水からの伝言」となる。