「才能」または「努力」によって、抽象化にどこまで耐えられるか

抽象化を行えない人はいないが、抽象化可能なレベルは様々だ。
知り合いの人に、Playstation(以下PS)のメモリーカードが、他人のPSの他人のソフト(もちろん同一タイトル)上で動作することに気づいていない人がいた。その人にとってセーブとは、スーパーファミコンのように「自分が持っているソフトと常に一対一の関係」を持っているものであって、同一内容のソフトであっても他人のソフトを自分のデータで動作させられることは衝撃だったようだ。
これは、ユーザデータとそれを使用するソフトウェアが、明確に分かれているというモデルを頭の中に描けていなかったことに起因する。つまり抽象化のレベルが低かったということだ。人間が理解を深めるということは、抽象化のレベルを上げていくということとニアリーイコールだろう。逆に言えば、抽象化できていないことは理解しているといえない。抽象化できていない作業は、ただ覚えたことを実行しているだけだ。
PCの敷居の高さはその抽象化レベルの高さに理由がある。数学がわからないことと、PCがつかえないということはレベルの差こそあれ本質的には同一だ。
抽象化をどの程度まで行えるかどうかは、才能と努力によって決定される。人生において、数学を必要とする人はごく少数であるが、抽象化を必要としない人はいない。数学を学ぶ意義というのは、抽象化の訓練を行うことに他ならないのではないか。

とかおもった。